回遊魚

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仕事は何時も、楽しくなかった。何しろ、上司が嫌な奴だった。責任のある仕事は何一つ任せてくれなかった。
 嫌な事なんて、いっぱいあった。何か一つだけ取ったら、とても些細な事だった。その日に限って雪球みたいに
膨れて膨れて、嫌な事に我慢が出来なくなった。
「何時までも、新人気分じゃ、困るんだよ?」
 直属の上司が嫌味っぽく笑いながら、皮肉を言う。
「君ももう、三年もこの会社にいるんだしねえ?子供の遊びじゃ、ないんだからさあ……」
 そんな事は、もちろん分かっている。何しろその書類は彼女が作った物ではなかった。それは、上司も知ってい
た。
 だが、苦情は彼女の所へやってくる。
「君も、こんな事ばかりされるとねえ……辞めてもらわなくちゃならなくなるよ?」
 ニヤニヤしながら、彼女の上司は、彼女の顔を覗き込む。
 むかむか、した。なぜ、何時もこの上司は自分にばかり、絡むのだろう。そう思った。
「だったら、辞めます。どうぞ次からは別の人へ苦情を持っていて下さい!自分のやった仕事と関係のない苦情を
毎日聞かされるのは、うんざりです!」
 思わず言葉が口から出た。その途端に、何だか心がすっきりした。
「どうぞまた、別の人をつかまえて愚痴をおっしゃって下さい。私、来週から、残りの有給全部使って、辞めますか
ら」
 毎日、我慢をし続けていたから、さすがに限界だった。ニッコリ笑って言い放つと、呆然とする上司を尻目に、彼
女は自分の席へ戻った。
 ずっとしまいこんでいた、辞表を引出しから取り出す。その後で、有給休暇届け出の書類を書類棚から持って来
た。
 有給の残り日数、18日を書き込み、会社休業日とあわせてほぼ1ヶ月にして辞める日付を辞表へと書き込む。
再び席を立って、上司の元へ戻り、辞表と有給休暇届を提出する。
「……これ、よろしくお願いします」
 彼女は瞳に冷たい光を浮かべて、それだけ言うと自分の席へ戻り、仕事の続きを始めた。
 辞める事務員が多かったから、自分で作っておいた引継ぎ用の書類が役に立つ。ずっと仕事も溜めずに済ませ
てきたのだ。
 そうして、彼女はそれまで勤めていた会社を冬のボーナス直前に辞めた。









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